母は80才を越えていますが、家を守りながら元気で暮らしています。
私が転勤で県外に越してから、お互い顔を合わせるのは盆正月とゴールデンウイークくらいで、今もそのペースは変わりありません。
老いて独りの心細さよ
父が亡くなってからの母は、やはり独りの時間が長くなり、出掛けることが少なくなったせいか、たまに電話で話すとなんとなく言葉がスムーズに出てきてないような感じがしました。
長いこと離れて住んでいるので、年をとった親の変化にはひと声で分かるほど敏感になります。
2年くらい前、母から「うまく話せない」「話すことが少ないからボケそう」「もう一人は無理」と聞いて、やっと母が同居する気持ちになったとホッと胸を撫で下ろし、私から家族に報告するので心配しないよう伝えました。
同居話は慎重に ~まず家族の現状確認を~
でもこれがまた、予想以上に難しくて。
ずいぶん前になりますが、「いずれ一緒に暮らすんだから少しでも馴染んでおくために、行ったり来たりしておいた方がいいよ」とみんなで話していたので、私は同居については母が引越しをするだけだと思っていました。
でも、いよいよその時が来て改めて家族の話を聞くと、時間の経過と共にみんなそれぞれすぐに動けなかったり、受け入れが難しい事情ができていました。
私があまりに楽観的に言うし、今まで母自身が同居を先送りにしてきたということもあり、大きな反発が起きてしまいました。
うちは揉め事とは無関係と思っていたので、こんなにあっという間に泥沼化することってあるんだと、母と家族の姿に衝撃を受けました。
家族と暮らした年月が短く再婚もせずにいる私は、人間関係の築き方がやはり深くないといいますか、人と言い合うとか、自分の感情をぶつけるとか、もう無縁のことだと思っていたので、生きていれば時にはそんな場面があるであろうことなど忘れていたのです。
しばらくの間、電話で母と家族のやり取りを聞いては、みんなの心の疼きが感じられて、とても気持ちが沈みました。
何度も家族と交わした会話の記憶を手繰り寄せながら、同居は母が心を決めるだけだと思っていたのは私の勘違いだったのか、私がまず家族の今の状況を聞いて慎重に進めていけばよかったと、自分の足りなさを思い知った日々でした。
結局母は独りになった
感情的になって、言いたいことを言えば言うほど、縺れる時があります。
言えば言うほど、相手ではなく自分自身が傷付くことがあります。
相手を言い負かして、一瞬はスッキリするかもしれないけれど、その結果は受け入れないといけないのです。
時が来るまで黙っていた方がいい事もあるのです。
すぐに同居できないと知ってショックだったとはいえ、あまりにも母が言い過ぎてしまいました。
揉めれば更に同居が難しくなるのに、どうして母は我慢できないのか私は理解できませんでした。
私の足りなさ故に大事になってしまって申し訳なく思いながらも、人はいつ死ぬか分からない、自分の吐いた傷付ける言葉が相手への最後の言葉になったらどうするの、お願いだからどうか揉めないでと祈るような気持ちで毎日を過ごしました。
母には私と一緒に住むことも提案しましたが、私が仕事に行っている間は一人で留守番で、友達も知り合いもいない所に引っ越すのは嫌だと言うので、もうどうしようもありませんでした。
老親が寂しくなく安全に暮らすには
同居が難しいと分かった頃から、自分で出来なくなった部分は人に頼むよう、母に話し始めました。
介護保険が使えなくてもいいので、お手伝いに来てくれる会社にお願いしようと何度も繰り返し話しました。
とにかく母が無理をして怪我しないようにするのが大切でした。
大きな心の傷を抱えたままでしたが、気丈な母は自分で役場に相談に行ったり、グループホームなどの見学に行き、姉にも見てもらったりしたようです。
かかりつけのお医者様からは、ホームに入るよりもまだまだ自宅でやりたいことをして過ごしたほうがよいと言われ、何よりも自由で健康でいたい母に迷いが出てきたのもこの頃です。
母の性格やうちの事情をよく知る親戚の女性も同じように、ホームに入らず在宅で支援を受けることを勧めてくれました。
そして不思議なことに、そんな時に遠縁のお姉さんが母に様子伺いの電話をくださり、切ない事情を聞いてくださった後、そのお姉さんが勤める介護施設に誘ってくださったのです。
そうして、役場に相談に行き、要支援1の認定を受け、週に1度のデイサービスに行くようになりました。
見守ってもらえるデイサービスへ
デイサービスで母は、楽しいプログラムで身体も頭も使い、時には宿題も頑張って、少しずつ元気を取り戻していきました。
母はこのデイサービスのことを「学校」と呼んでいて、最年少の新入りだからとお茶目なことを言いながら、配膳のお手伝いをしたり、お友達が出来たりと、とても楽しく過ごしています。
また、戦中戦後に育ち思うように勉強ができなかったことをいつも悔しがっていましたが、その悲しみが晴れて、劣等感もなくなったと言い、ずいぶん明るくなりました。
年を取って痩せてしまい、しわくちゃになった顔で泣く母を見るのはとても辛いことでしたが、このことを通して、母も私も普段の周りの人とのお付き合いの大切さを実感し、人の温かさに改めて感謝しています。
デイサービスで気力回復
母は5才の時に母親を病気で亡くして寂しい思いをして育ったので、年を取った母を寂しがらせるのは可哀相に感じます。
私は長年、定年退職した後に故郷に帰るかは分からないと思っていましたが、このご時世もあり早く一緒に住んであげたいと思うようになりました。
今から先、私が定年退職するまで母は一人で暮らせるでしょうか。
今年になってから少しは娘らしいことをしたくて、月に一度は帰省ようと思っていました。
母は「大丈夫」「ちゃんとやってる」と言いますが、本当に母が綺麗にしていつもと変わらず暮らしているか見に行きたいのです。
しばらく一緒に過ごしてみて、何か変わったことないか、ボケてないって本人が言うのは本当か、手摺が必要なところはあるか、生活の細々したところも気になります。
庭の草取りや家の傷んでるところはないかとか、ゴミ出しはこまめにしているかとか、近所の人への挨拶とか、いろいろしたいのに、母が「来ないで」と言います。
理由は、施設内の感染症防止のため、県外の人と会うとデイサービスを3週間休まなくてはいけないからだそうです。
休むと楽しみがなくなる、頭がボケる、と言って拒むので、こちらが会いたいと思ってもどうしようもありません。
気丈で自立心が強くて立派ですが、家族じゃなくてそっち取りますかと毎回苦笑いしています。
家族はみんな県外なんだから、いい加減どこかで考え方を変えないとずっと会えないよって思いますけどね。
それで結局今年は3月1日に会ったきりです。
いつもの母らしさが復活しました
あとひと月で年末を迎えますね。
年末年始は毎年パっと家族が集まって、私はそのうち二泊三日だけ参加してましたが、今回はどうなるのかまだ予定が立ちません。
うちの家族は4県に散らばってるので、移動自粛にならないことを祈りつつ、せーの!でパっと全員集まろうと話しています。
そしてその時に全員のお誕生日会をしてしまおうという計画があります。
それぞれの年齢の書いた派手なとんがり帽子を紙で作ってね。
母は寒くなると出掛けるのが辛いようだし、なによりデイサービスを休みたくないので、どうするかはまだ分からないそうです。
果たして、母に会いたい家族の想いは届くのでしょうか。
私は離れて暮らす母に会いたいです。