感謝する心を忘れずに、出会った人を気遣いながら良い人生を生きよう

人が感謝する時、その対象は物であったり、人であったり、或いは目で見ることのできない神様や先祖であったりします。

日本人は、家庭のなかで小さい頃から「ありがとう」という言葉を使い、感謝の気持ちを表すよう躾けられています。

お父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんといった身近な大人は、自分たちの子どもが良い人になって、出会いに恵まれ、たくさんの福を授かって幸せになるように、良い心に育つようにと願いを込めながら、感謝する心を伝えてくれました。

足りないものを数えずに、今あるものに感謝する生活

このコロナ禍によって、人との繋がりやご飯が食べられることや健康について改めて考え、深い感謝の気持ちが湧いてきた人もいたのではないでしょうか。

去年、政府によってマスクが配られた当初、今でこそ愛称となった「アベノマスク」という言葉は、安倍前総理を愚弄し嘲笑したものだったと記憶しています。

有名人一般人を問わず、手元に届いた未使用のマスクを分解したり、サイズが小さいと不満を露わにしたりといった報道が巷に溢れていました。

そんな画像や動画が目に入るたびに、難しい状況でリーダーシップを執っていた安倍前総理はもちろん、それに携わった人たちがどんな気持ちになるかを考えると、なんだか申し訳なく情けない気持ちになっていました。

ある日、離れて住む母が電話で「アベノマスク」と言った時に、「揶揄したように聞こえるので使わないように」と伝えました。

テレビで聞いて何気なく使った言葉だったのですが、背後にある意味が分かっていて使うのは恥ずかしいことです。

この時の「あるものに感謝し、おだやかに暮そう」という、家族と会えずに不安に思う年老いた母との会話は、きっと何年経っても忘れることはないでしょう。

感謝する必要はないという人がいた衝撃

そのように昨年から大きな変化を感じている中で、この頃のいくつかのニュースとSNSの活発な意見に触れ、衝撃を受けたことがありました。

それは身体障がい者の意見で、身体障がい者が健常者と同じように生活できないのはおかしいし、身体障がい者が健常者に手助けしてもらったとしても、感謝する必要などなく、それを強要するのは間違っているというものでした。

日々の生活で、当たり前に使っていた「ありがとう、助かりました」「ありがとう、良かったです」の言葉。

それが必要ないとは、一体どういう意味なのかが理解できなかったし、感謝することを誰かに強要できるとは、それまで考えたこともありませんでした。

次の世代の幸せも考えて、心の壁を崩す努力をしたい

人は、同じ立場に立たないとその人の気持ちは分かりません。

不自由な身体であるがために、諦めること、悔しいこと、悲しいことがたくさんあるんだと思います。

健常者には、身体障がい者の苦労は想像もできません。

両者の間に、無形の分厚い心の壁があることを、今回の「感謝」というキーワードによって、この時初めて知ったのです。

この壁をなくすのは大切なことですが、簡単ではありません。

それでも諦めずに、どちらか一方ではなく、お互いが配慮しあいながら暮らしていくことが重要ではないでしょうか。

純粋な気持ちで、お互いを尊重して関りを持ち続ければ、見えない壁はかならず消えるとわたしは信じています。

そして、わたしたちの世代でなにができるかを見つけて、良くしていきながら、次の世代の人がもっと幸せに暮らせるようにしていきたいです。

感謝の気持ちをもって、幸せを感じよう

日本人の気質なのか、普段からたくさんの人が、実にさりげなく、お互いが過ごしやすいように気遣って生活しています。

困っている人がいれば助ける、助けてもらえば感謝する、そんなのは当たり前。

手助けして苦労しても、相手の「ありがとう」の気持ちが感じられたなら、人の役に立てたと誇らしく、うれしくなって疲れが吹っ飛び、また力が湧いてくるものです。

感謝する心をもっていれば、人との良い繋がりが生まれ、幸せになる方向へ進んでいくに違いありません。

感謝できるかできないか、全ては自分次第だと改めて感じる今日この頃です。


「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、
愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、
精霊による一致を守り続けるように努めなさい」

ふと目に入った新約聖書の聖句(エペソ人への手紙第4章2節~3節)
謙遜と柔和を忘れずにいたいと思います。

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